今年の第16回深見東州・バースデー書画展、「かいがいしく絵画を見て、ショーのような書を見て、コテコテのギャグを楽しむ個展」は、3月19日から31日までの開催ということを先日お伝えしました。今年は一層忙しいのか、深見東州さんの本来のバースデーより1日遅らせての開催になっています。場所は、ラフォーレミュージアム六本木です。

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2016年3月19日(土)〜31日(木)11:00〜21:00(31日 17:00終了)開幕式3月19日 11:00

せっかく見に行くのですから、開会式にも間に合えば出てみようと思います。
ここ数年、毎年たくさんの来賓客が来てるそうで、多くの方が駆けつけて、お祝いされるのでしょう。この日ばかりは深見東州さんも、ステージ上ではなく、一般客とともに絵を見たり説明されたりすることもあるようです。

ここで、深見東州さんの書や絵画の美術家として歩んできた道を簡単に紹介します。

深見東州さんは、鳴尾高校時代に書道部で書を習いますが、しばらく中断した後、35歳で竹中青琥先生に出会い、大御所の西川寧先生の孫弟子になられたそうです。
そして絵画は、全くのゼロから、やはりその頃より始めたそうです。独学による日本画から始まり、(故)浅井秀水先生に仏画と日本画を学び、犬飼得之先生に日本画と水彩、墨彩画を学んだそうです。その後(故)安永麦州先生より、独自な水墨画を学び、様々な技法、技術を学ぶんできたそうです。この麦州先生とは、「墨汁の詩(うた)」という書画詩集を一緒に出されています。これは深見東州さんの俳句と書に、麦州先生が水墨画を描き加えたものだそうです。そして、中国人の沈和年(しんわねん)先生という方からも水墨画を学んだそうです。それぞれの師たちは、独自に秀でたものをお持ちでしょうから、それらを吸収されていかれたのでしょうね。

西洋画は松下友紀氏が教えてくれたそうですが、そこで「西洋画とは、何でもありという美術」だと教わり、それならば、自分にはとても合っていると思われて、どんどんのめり込んでいき、美術の奥深さを実感したのだそうです。

そこで、美術を本格的に究め、論文にしたいと思い、52歳で、中国清華大学美術学院美術学学科博士課程に入学し、書と絵画と美術学を学び始めたそうです。そして3年かけて、55歳で博士号を取ります。もちろん厳しい論文審査を通過してのことです。清華大学の論文の指導教授だった杜先生は、中国で有名な、美術家だそうですが、「絵画に関しては、東州さんの方が上だよ」と言ってくれたそうです。お互いが刺激し合い、高めあった3年間だったそうです。

それと並行して、50歳の時に、年齢的になんでも億劫になるという劣化を感じてからは、それを克服するためにと、毎年誕生日に新作を発表するバースデイ個展も始めます。それが、今年で16回目になるそうです。さらにご自身を追い込むために、個展の新聞広告も始めます。それによって、絵が好きな人も来るし、専門家もきますから、それらの人たちを唸らせるだけの作品を描こうというモチベーションになるということです。

ということで、絵画に関しては、かれこれ30年にわたって書かれていることが理解できますね。

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去年の第15回深見東州バースディ個展は、「墨で個展個展、絵具で個展個展、見るのにてんてこ舞いの個展」、(別称)深見東州大英博物館凱旋個展でした。そこでは、巨大な書のパフォーマンスが行われました。同じことを、2014年の11月に、ロンドンにある世界最大級の「大英博物館」主催による、深見東州さんの書画展『Captivating Calligraphy』でもされたそうです。

この書画個展は大英博物館の日本文化研究員から高い評価を得て開催が決まったもので、初日のデモンストレーションでは、巨大な書の他にも、水墨画、太鼓、仕舞、笛のパフォーマンスも行ない、日本文化の理解のために努められています。

そこでのエピソードとして、大英博物館からは書と水墨画だけを依頼されたそうですが、それは色のついた絵なら、あちらにもたくさんあるからということだったようです。それで深見東州さんは、大英博物館があまり好きではなかったそうで、それは大英帝国の時代に略奪したものを展示していることが理由だったそうです。そのことを責任者に言うと、「90%以上はお金を払っている。領収書もある」と言われたのだそうです。なかなか面白いこと言いますね。
それによって破壊から逃れて、今に残るものも多かったでしょうから、そういう意味では良かった面もあるのかもしれません。

最後に、深見東州さんが書かれた、このような芸術をされるにあたって、どういう気持ちで磨かれているのかが、よく分かる文章がありましたので引用してます。

ところで、そもそも、こういう事をやるポリシーの背景には、日本文化の歴史的な芸術哲学があるのです。
 西洋のルネッサンスは、ジオット、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ラファエロが有名です。しかし、日本にも、室町期にルネサンスがありました。観阿弥、世阿弥、能阿弥、善阿弥(作庭家)、芸阿弥(能阿弥の子)、相阿弥(能阿弥の孫)、室町末期の戦国時代には、本阿弥光悦が居り、これらの「阿弥」たちが、今日の日本文化を作ったのです。

 能阿弥とは、東山御物(ひがしやまぎょもつ)を選定した、足利義政のおかかえ芸術家です。初めて、書院飾りを作ったことでも知られます。彼は、能阿弥流の書を初め、万能の芸術家だったのです。だから、世阿弥や能阿弥、本阿弥光悦などは、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロだと言えます。しかも、日本の方が西洋よりも、百年から百五十年古いのです。

 この日本型ルネッサンスの芸術家は、なぜ「阿弥」を名乗ったのでしょうか。それは、南無阿弥陀仏の「南無」は、帰依する意味で俗人をさします。「陀仏」は出家をさします。そして、その中間の「阿弥」とは、俗人と出家の間を指す言葉なのです。さらに言えば、俗人でも出家でもないが、俗人であり、出家でもあった存在なのです。彼らは、「阿弥」と名乗り、死ぬまで芸術の修錬や、向上を通して魂を磨くことを目指したのです。そして、作品とは、その磨かれた魂の表現や顕現なのです。この阿弥の思想は、一遍の時宗の影響とも言われています。

 日本型ルネサンスの芸術家は、出家と俗人の間の、「阿弥」の人生を送った人達なのです。
 そして、私のペンネーム「戸渡阿見(ととあみ)」は、ここから来てるのです。トトは、エジプトの言葉や文章の神様です。そして、「阿見(あみ)」とは、日本型ルネサンスの生き方を意味するのです。私は一生、阿弥の生き方を送り、自分の魂を高め、深め、磨き、それを楽しみながら、明るく面白く死にたいのです。そして、そのプロセスで、多くの作品を残したいのです。

 ヨーロッパのルネッサンスより、日本のルネッサンスの方が、優れていると自信と誇りを持っています。「悟りや思想の奥が浅い、西洋人なんかに負けてたまるか!」「日本男児の大和雄心、大和魂の爆発を見よ!」という、気概と根性で生きてるのです。

 西洋人や西洋文化なんかに負けませんが、こよなく愛しています。そうでないと、日本と東洋に偏った、偏屈芸術家になります。また愛してないと、それらを学ぶ気になれません。これで、はじめてアイデンティティーのはっきりした、インターナショナルな芸術家になれると確信してます。